2022年4月27日水曜日

【千年団】嗚呼かくもおかしき人間

4/26 15:00-17:00 現代劇場303 担当:渡辺

先週に引き続き「小役人の死」で遊びました。
通して15分前後の短編ですが、さすがにチェーホフ、ここに人間のおかしみかなしみが軽快に描かれています。
恐らくこれは喜劇と言って良いのでしょう。自分のちっぽけな失態について、上司は意に介していないにも拘らず、まだ怒っているに違いないと繰り返し繰り返し繰り返し許しを請う男の話。
最終的には、邪険にされている!と勝手に激昂し、憤死のような最期を迎えます。

死や運命みたいなものを、「あえて」随分と矮小化して描いている。
最初これは、チェーホフの長編悲劇とは真逆の作劇法だなと思ったのですが、もしかしたらそんなこともないのかもしれない。
ギリシャ悲劇であれば、逃れられない運命に対峙した人間の英雄的な死が扱われていたりしますが、チェーホフの場合はもっと些細なことが死のきっかけになっていたりする。
(彼が「悲劇的」に描いているのは「生」であって、「死」自体は恋愛絡みの決闘や自殺など、はたから見れば「馬鹿馬鹿しい」とも言いうることが原因だったりします……あと少しマニアックなことを言えば、チェーホフは『かもめ』の冒頭に「四幕の喜劇」と記している。このこと自体が「演劇」を考えるための手がかりになりそうです)

演劇という営み自体がある種の「冗談」、すなわち余分でむだ(冗)な話で、だからこそ重要だとも言えるかもしれない。
冗長さがあまり歓迎されない時代だからこそ、演劇にできることを改めて考えた方が良い、そんなことを思いながら稽古を見ていました。

来週はゴールデンウィークのためお休み。
高槻では「ジャズストリート」が開催されます。





2022年4月20日水曜日

【千年団】まじめに遊ぶ

 4/19 15:00-17:00 現代劇場306 担当:渡辺

4月から再開していました千年団、私は2月末の公演以来の参加です。
前半は入念な体操と発声ののち、簡単なシアターゲームをしました。

(私も参加したので写真は撮れませんでしたが)
椅子を三脚ずつ、計六脚向かい合わせに並べ、その後ろに一人ずつ立ちます。
立っている6人の他、2〜3人がランダムに椅子に座ります。これが初期配置。

ゲームが始まったら、立っている人は、自分の前の椅子に誰も座っていない場合、向かいの椅子に座っている人をウインクで誘惑します。こちらにおいで、と。
座っている人は、ウインクをした人の椅子のところまで移動します。
ただし移動しようとしている人の後ろに立っている人は、移動を阻止するためにその人にタッチします。
タッチされたら移動失敗ということで同じ椅子に座ったまま。これをひたすら繰り返します。

移動する人にはウインクに気づく視野の広さと機敏さが、タッチする人には反射神経などが求められます。
ただ恐らくこのゲームの肝はウインクする人。

タッチする人の意識をかいくぐって、気づかれないようにウインクを届けなければならない。
ウインクするぞするぞ、と気を発していると絶対に阻止されてしまいます。
この「やってやるぞ感」みたいなものを消す、という技術?は武道、とりわけ剣道などでは求められることです。
演劇でも、「私という俳優が今こういう演技をしていますよ!」と身体から溢れる「気」が前に出てきてしまうとあまり面白くならない。
「俳優」の「私」感は背後に消えていった方が良い。とはいえ、単に脱力すれば良いというものでもない…演技の難しさの一つがここにある気がします。

後半はチェーホフの短編、『小役人の死』。
リーダー小原さんが「飽きるまでこれで遊ぶ」と持ってきた戯曲です。今週で2回目。
演劇にも色々な作り方がありますが、演出家が最初から強固なイメージを持っていて、それに当てはめるように俳優を動かす、というのは(少なくとも現代では)あまり主流じゃないように思います。
実際に俳優や舞台装置を配置してみて、動いてみて、この感じ面白いからこの方向で行ってみるか、といったトライ&エラーが求められる。
共同作業をしていく中で、このある種の行き当たりばったり感を許容できる空間って実はあんまりないかもしれません。
(会社で、行き当たりばったりに仕事をさせられたら不満が起こるでしょう)
とはいえ、何でも良いから適当にやってみる、というわけでもない。
やってる方は大真面目にあそんでいるわけです。

「遊び」と「真面目」は対置させられることも多いですが、やらされる仕事よりも、演劇の方が真面目に取り組めるんじゃないか? 本当の「真面目」は、どこかに遊び感がないと成立しないんじゃないか?
(私もいっときは真面目な営業マンをやっていたことがありましたが、売上を伸ばすという「遊び」に興じていたと言えるかもしれません。)
そんなことを考えていました。

久しぶりなので長く書いてしまった。
暑くなったり寒くなったり、なかなか体調管理も大変ですが、ご自愛ください。適度に遊びつつ。



2022年4月13日水曜日

【そよ風ペダル】桜の季節も終わって新シーズン

 4/12 14:00-16:00 担当:渡辺健一郎

先週から再開しましたそよ風ペダル。私は2月の公演以来の参加です。

今週急に暑くなりましたので、体調にも気をつけつつ。


次の公演に向けて、みんなで昔観た映画などについての雑談からスタートしました。

前回公演のアンケートなどを読みつつ。

みんな映画をすごいよく知っている…とんでもなく盛り上がってしまいました。

私の知らないタイトルもたくさん出てきた。

自分の記憶と強く結びついている人もいて驚きました。「あれは高校三年生の時に…」とか。


映画って何か不思議な仕方で記憶されていますね。

映画を、観たことはないけど有名なシーンは知ってるとか、曲だけは聴いたことあるとか。

(これは私だけかもしれませんが、演劇の場合、シーンよりは俳優の特徴的な演技が強く印象に残っていたりします…日常的にそういう演技のモノマネをしたりして遊んだりしています)

われわれは映画とどのような距離を保っているのか?考えるべき、一つの主題になっていきそうな予感もあります。


最後に太田省吾の戯曲をちらと読みながら、「ゆっくり話す」ということについて、リーダーから問題提起がなされました。

テンポよくおこなわれる会話、ばかりが価値あるものとされている感があります、特に現代は。

するめを噛むような仕方で、じっくり会話を味わっても良いのではないか?といったような提案がなされました。


演劇をやっていて思うのは、語る内容よりも、やはりその語り方、トーンの方が重要だなということ。

同じ時間にたくさんの意味を詰め込もうとするなら、当然語りのテンポをはやくする必要があるでしょう。

ただ、人の記憶に残るのは一体何か。過去の映画を思い出そうとしたとき、沢山の「意味」の雪崩と、各シーンで醸し出されている空気と、どっちの方が思い出されるでしょうか。


…「ゆっくり話す」はしかし、どうやらただ速度を落とすということではなさそうです。

「テンポの良い会話(掛け合い)」をただ0.7倍速にするだけでは、あんまり趣きが出てこない。

ゆっくりとは何か。これもきっと大きな問題をはらんでいて、模索しがいがありそうです。

(そういえば昨年末に西堂行人『ゆっくりの美学 太田省吾の劇宇宙』って本が出版されてましたね。読んでみようかしら…)