2021年3月16日 担当:梶川
公演稽古を進めています。
お話の内容に触れずにブログを書くのがなかなか難しいのですが。
個人的には久しぶりのそよ風ペダルの稽古場に来て、作品がここまでできあがってきた創作過程を把握していません。
あえて脚本も読まず初見で作品に触れてみました。
つまりは私が最初のお客様視点で作品を見たことになります。
今日は作品の5分の1程度を繰り返し稽古しました。
これはよくわからんとなって、手早く足りない情報が書かれているシーンの脚本を読んで理解しました。
全容が立ち上がった時に出てきた言葉は「グローバル化で失ったもの」ということでした。
有名作品のパロディということはすでにブログで書かれています。
有名作品、つまりは名作ということに引っかかりを覚えました。
名曲という事でもいいんですけど、だんだんと有名になることが難しくなっているのではないか。
例えば誰でも知っている名作や、その時代にみんなが歌えた名曲と言うのが生まれにくくなっている気がします。
有名なものというのは、そのことを好悪は別にしても多くの人が知っているといこと。
価値観を分解すると正義と美意識であると、有名であるということは正しさと美しさに支えられていました。
「なぜ人を殺してはいけないのか」ということに、正しい答えを用意できなくなりました。
美しに至っては語れることがありません。
美術について、商業ベースでつくられるものに技術として優位にたてなくなりつつあり、作品そのものよりも解釈した上での説明や創作のうえでの物語が必要になっているという話を聞いたことがあります。
美術というフレーム、垣根が合間になっている。
いろんなことの垣根が曖昧になる、つまりグローバルとは越境することですから。
多様性、自由、主体性ということが大切だと私自身がこれまで思っていました。
最近、果たしてそうだろうかと感じています。
孤独は自由の裏返しではないかと、ある日気付いてしまいました。
自由になりたいと人との関わりを希薄にした結果の孤独。
なので孤独までは私の中で許容できます。
自分で選んだのだから。
寂しさを感じても自由の代償です、甘んじて受け入れましょう、もしくは誤魔化しましょう。
問題は自分で選んでいないのに1人になってしまう事。
これを最近は孤絶というのでしょう。
話はそれますが、貧乏と貧困も同じように違うと考えています。
貧乏は自分でどうにかできる程度での話ではないかと。
貧困はもはや自分でけのことではどうしょうもない状況。
戦後すぐを生きた人にインタビューをしたことがあって。
ものはなかったけど貧乏だとは感じなかったと。
だってみんな物がないんだもの、言ってしまえばみんな貧乏と。
自分で決断して進めるならば問題ないではないか。
ここで「自己責任」というキーワードが浮かび上がります。
責任をとるってどういう事だろう、果たしてそんなことは可能なんだろうか。
生きづらい世の中だと感じます。
それは自由になれないからだろうと思っていましたが、もしかすると反対かもしれません。
自由ゆえに自分で責任をとらなければならないというプレッシャーやストレスが生きづらくさせている原因ではないか。
だからといって一度手にした自由を手放すことができるのかしら。
やはり周りと考えが違っても譲れない信念をもちたいと思ってしまう。
原始時代から群れで生活することが当たり前だったわけで、独居生活の実現はここ数十年のこと。
身体的にも心理的にも対応できていないのでしょう。
私はまだまだ自由を持て余しています。
長々とすいません。
作品の話と言うよりも、私が最近考えている事をつらつらまとまりなく書きなぐってしまいました。
でも作品に刺激されて出てきた言葉たちです。
みんなで歌える名曲や語り合える名作を創りにくくなっている。
そこには「自由」ということをどう扱うかということに関わっていて。
そのうえで名作をパロディにして真面目に演じることにどんな意味を見出すのか。
そして名曲や名作を知るシニア世代であるそよ風ペダルがこの作品を演じるということ。
本当に楽しみな作品です。