2021年6月30日水曜日

千年団、稽古再開――いきなり厄介な

 6月22日(火) 15:00-17:00 千年団 担当:渡辺


緊急事態宣言を終えて実に2か月ぶりに、再び高槻現代劇場に集まることができました。
人数は少なかったですが、軽めに身体と頭を動かしました。
発声練習も普段より控えめに。

これから数回かけて、東京五輪の話をしていこう、ということになりました。
五輪が開催されるだろうことについて、みんなはどういう風に考えているのか?云々。
2人グループに分かれて、1人が話し手になります。
もう1人は聞き手として質問をしながら、相手の喋った内容や身振り手振りなどを仔細に観察し、メモ。
その後聞き手は、メモをもとに「話し手役」を演じて(なるべくトレースして)発表することが課されました。

発表は「話し手役」一人でおこないますが、チーフ小原さんは
「質問されている時、質問を聞いている時の<間>も演じてほしい」と強調します。
喋っている時の内容など以上に、相手の声に耳を傾けている時の雰囲気こそ重要だと。

映画などを1.25~1.5倍速程度で視聴する人が増えてきた、と最近よく耳にします。
内容さえ追えればそれでOK、としないために、演劇ができることを。顔を突き合わせて。やっている。
そんな具合でした。





2021年6月29日火曜日

そう見せたいという意識

6月29日 そよ風ペダル 担当:飯坂

いまは、「ニュー・ピクニック・タイム」の一部抜粋版を稽古しています。
改めて、子どもや母親など、自分と遠い存在を演じるときの感覚を再認識しました。
子供を演じようとすると、例えば声が高くなったり、おどけた顔をしてみたり、「子どもに見えるように」という意識が働きます。
小さい子どもがいる母親を演じると、子供に向かって話しかけるという意識が強くなりめす。

でも今回はそういうことはせず、むしろそのまま喋った方がよいのではないか、と。
そうすると、そのうち自然に子どもに見えてくるんですよね。
むしろ、「子どもに見えるように」という意識が邪魔になったりします。

今回は皆さんいろんな役を演じますが、「その役に見えるように」という意識を持たず、全力で演じる、というところにフォーカスしていきます。

2021年6月28日月曜日

そよ風ペダル、稽古を開始いたしました!

 6月22日 そよ風ペダル 担当:飯坂

そよ風ペダルはしばらくお休みしておりましたが、22日より再び動き出しました!
「ニュー・ピクニック・タイム」は延期となりましたが、しばらくはまた別の公演の稽古をします。
別、といいましても、やることは「ニュー・ピクニック・タイム」の一部抜粋版です。
それがどういうことなのか、、、情報公開を楽しみにお待ちください!!

ともかく今日は久しぶりにみんなで顔を合わせました。
皆さんお元気そうで、とても安心いたしました。

感染対策を十分に行いながら、稽古を進めてまいります。
皆さま、お楽しみにお待ちください。

2021年4月21日水曜日

台本を「読む」?

 4月20日(火) 15:00-17:00 千年団 担当:渡辺


チーフ小原さんより、今年度最初の台本が配られました。
名前は書いていないAとBの、何気ない会話のシーン。
A4裏表の短いシーン。しかしその背後に人間関係やいざこざを感じざるを得ない微妙なシーン。

一応小原さんはこの二人がどういう関係にあり、どういう場所で、どういう意味で喋っているのか、決めて書いているようでしたが、正解は必ずしも重要ではないというスタンスを貫いていました。
脚本家の意図から外れたところに演技の妙がありますね。

二人組のペアになって、皆あーでもないこーでもないと台詞の意味や発話の仕方について考えます。

演技について試行錯誤する際、台詞を一つだけ抜き出して練習してもあまり成果は出ない。
特に最初の内は、二人がどういう関係にあるのか、前の台詞から話題の転換を図るときにどういう「(行)間」が必要か、全体の流れや構造を考える必要がありそうです。
各ペア2回ずつ発表の機会がありましたが、二回目は明らかに深みが増していました。凄い。

台詞の中に「ドエル」の「ミルフィーユ」が出てきて、何度もその台詞を聞いてしまったので、どうにも今日の帰りはドエルに寄ることになりそうです。

2021年4月14日水曜日

不/自由を考える、自分の内と外で

 4月13日(火) 15:00-17:00 千年団 担当:渡辺

千年団の稽古場担当をして二週目です。今回もまた大いに困った。
困惑する時間が面白いですね、やはり演劇は!

本日の課題は、「自分だけが不自由だと感じていることについて」。
三人1チームに別れ、一人がこのテーマで、1分喋る。
一人はそれをしっかり見て、話の内容や身振り手振りを完全コピーして反復する。
もう一人はそのコピーされたものを見て、もう少しこうした方が…などとコメントをする。
という取り組みです。

まずお題が厄介でした。「自分だけ」が「不自由」と「感じる」?
不自由をどういうものとして考えるか。そして、それは「自分だけ」の問題なのかどうか。
実際に取り組んでみると、よく分からなくなってくる(小原さん曰く、そこがミソなのだそうで)。
それでもどうにか語らなければならない。

さらに厄介なのは、やはりそれをコピーするということ。
普段の自分から離れて、他人の言葉遣いや身体の使い方に身を委ねるという作業は、
自分が自分という枠にどれだけ囚われているのかを明かしてくれました。
他人との差異に焦点をあてることで、自分のことが分かってくる。
もちろん、他人のことも分かってくる。

私はまだ二回目の参加ですが、ただ会話をするだけよりも、
参加者のパーソナリティがよく分かってきた…ような気がします。

2021年4月9日金曜日

「稽古場」というscene(場面、舞台)の即興/上演

4月6日 千年団 担当:渡辺

今年度からシニア劇団の稽古場にお邪魔することになった渡辺と申します。
初日から色々な場面に居合わせました。面白かった。困った。

前半はウォーミングアップ。
2月の公演以降、初めての集まりだったので、こわばった心と身体をほぐすところから。
発声・活舌の後、シアターゲームを少々。
参加者の一人が他の演劇ワークショップに参加してゲームを仕入れてきた様なので、
当人に説明してもらって、みんなでチャレンジ。
このゲームはどういうところが面白いのか、みんなで吟味しながらじっくり実践。

後半は2月の公演の振り返り。
3人ずつのチームに分かれて話し合い(人数合わせのため、私も飛び入り参加)、のち発表。
普通に発表してもつまらないということで、チームの中の2人が、もう1人の言っていたことを
「噂話」のように説明する、というような発表形式が講師より考案されました。
「〇〇さんな、あの公演の時××だったらしいで?」といった具合に。即興で。
急な提案に「えー!?」という声も上がりましたが、1~2年の間小原さんのもとで鍛えられた参加者たちは、
苦戦することなく意気揚々とこなしていました。

講師の小原さんの立ち居振る舞いからは、まさに「シーンをつくる人」といった印象を受けます。
考えてきたことを皆にやってもらう、のではなく、まず集まった人間たちが今どういう状態なのかを見極めて、
今何をしたら面白いのか、どうすると活発なコミュニケーションが交わされるのか。
その場その場で考えていくという稽古場スタイルでした。
とはいえ決して「行き当たりばったり」という訳ではなく、当日のメンバーの様子をじっくり観察したり、
初対面の私の存在も加味したりして、濃密な場を構成していたように思います。

先導する講師と、それにのっていく参加者たちとの、強力な信頼関係を感じられた2時間となりました。
実作に入ったらどういう動きが生まれるんだろう。今から楽しみです。

2021年3月16日火曜日

名作と自由と

 2021年3月16日 担当:梶川


公演稽古を進めています。

お話の内容に触れずにブログを書くのがなかなか難しいのですが。

個人的には久しぶりのそよ風ペダルの稽古場に来て、作品がここまでできあがってきた創作過程を把握していません。

あえて脚本も読まず初見で作品に触れてみました。

つまりは私が最初のお客様視点で作品を見たことになります。

今日は作品の5分の1程度を繰り返し稽古しました。

これはよくわからんとなって、手早く足りない情報が書かれているシーンの脚本を読んで理解しました。

全容が立ち上がった時に出てきた言葉は「グローバル化で失ったもの」ということでした。

有名作品のパロディということはすでにブログで書かれています。

有名作品、つまりは名作ということに引っかかりを覚えました。

名曲という事でもいいんですけど、だんだんと有名になることが難しくなっているのではないか。

例えば誰でも知っている名作や、その時代にみんなが歌えた名曲と言うのが生まれにくくなっている気がします。

有名なものというのは、そのことを好悪は別にしても多くの人が知っているといこと。

価値観を分解すると正義と美意識であると、有名であるということは正しさと美しさに支えられていました。

「なぜ人を殺してはいけないのか」ということに、正しい答えを用意できなくなりました。

美しに至っては語れることがありません。

美術について、商業ベースでつくられるものに技術として優位にたてなくなりつつあり、作品そのものよりも解釈した上での説明や創作のうえでの物語が必要になっているという話を聞いたことがあります。

美術というフレーム、垣根が合間になっている。

いろんなことの垣根が曖昧になる、つまりグローバルとは越境することですから。




多様性、自由、主体性ということが大切だと私自身がこれまで思っていました。

最近、果たしてそうだろうかと感じています。

孤独は自由の裏返しではないかと、ある日気付いてしまいました。

自由になりたいと人との関わりを希薄にした結果の孤独。

なので孤独までは私の中で許容できます。

自分で選んだのだから。

寂しさを感じても自由の代償です、甘んじて受け入れましょう、もしくは誤魔化しましょう。

問題は自分で選んでいないのに1人になってしまう事。

これを最近は孤絶というのでしょう。

話はそれますが、貧乏と貧困も同じように違うと考えています。

貧乏は自分でどうにかできる程度での話ではないかと。

貧困はもはや自分でけのことではどうしょうもない状況。

戦後すぐを生きた人にインタビューをしたことがあって。

ものはなかったけど貧乏だとは感じなかったと。

だってみんな物がないんだもの、言ってしまえばみんな貧乏と。

自分で決断して進めるならば問題ないではないか。

ここで「自己責任」というキーワードが浮かび上がります。

責任をとるってどういう事だろう、果たしてそんなことは可能なんだろうか。


生きづらい世の中だと感じます。

それは自由になれないからだろうと思っていましたが、もしかすると反対かもしれません。

自由ゆえに自分で責任をとらなければならないというプレッシャーやストレスが生きづらくさせている原因ではないか。

だからといって一度手にした自由を手放すことができるのかしら。

やはり周りと考えが違っても譲れない信念をもちたいと思ってしまう。

原始時代から群れで生活することが当たり前だったわけで、独居生活の実現はここ数十年のこと。

身体的にも心理的にも対応できていないのでしょう。

私はまだまだ自由を持て余しています。



長々とすいません。

作品の話と言うよりも、私が最近考えている事をつらつらまとまりなく書きなぐってしまいました。

でも作品に刺激されて出てきた言葉たちです。

みんなで歌える名曲や語り合える名作を創りにくくなっている。

そこには「自由」ということをどう扱うかということに関わっていて。

そのうえで名作をパロディにして真面目に演じることにどんな意味を見出すのか。

そして名曲や名作を知るシニア世代であるそよ風ペダルがこの作品を演じるということ。

本当に楽しみな作品です。