9月1日 千年団 担当:梶川
追加ページをもらっての読み合わせからの立稽古です。
今日は参加人数が偶数だったので、外側から客観的に立ち稽古を見ていました。
立ち稽古を見ているときは、脚本を見ないで演技を見ています。
事前に脚本を見ているのでどんな会話をしているかはわかっているのですが。
これは今日だけでもないし、他のお芝居の本番を見ている時にもありますが、セリフが聞こえてこないと感じる時があります。
これは発声とか滑舌の問題ではなくて。
なら何によるかというのをはっきり説明できませんが。
関連するかはわかりませんが、例えばネット動画を無音でテロップや字幕で見ることがありますが、その時にはセリフが聞こえてないのにセリフを聞いた体験をすることができます。
それはその動画を一度も音声付きで聞いたことがなくても体験することがあって。
これは現場では気づいていなくて後付けで考えたことなのですが、セリフとは声とは言葉とはと考えた次第です。
ではどのようにすればセリフが聞こえてくる演技ができるようになるのだろうと、これは現場で考えていて。
あっているかどうかの確信もなきまま誤解を恐れずいうならば自己中心的利他の演技をするということかなと。
演技なんてどうしたって主観から生まれるものなので、お客さんがとか相手役がとか、他人の発信に反応してというのは勘違いでしかないのではないかと(暴論)。
それはそれとして受け止めて、その上でどうすれば相手役がやりやすいかとか、相手が面白くなるかとか、お客さんが面白がれるかとか。
自己中心であることを引き受けた上で周りのために演技する。
単純に自己犠牲でも滅私でもなく他者の望みそうなことをする。
勘違いや偽善と言われようと、それで役立つならそれでいいではないか。
絶対善と偽善、果たして見分けがつくのか。
見分けがつかないのなら、プレッシャーがかからない分、偽善で充分なのではないか。
そんなことを考えます。
説明している内容がすでに矛盾を孕んでようにも思いますが。
演技はどこまでも偽で。
偽が人の為と書くということ。
簡単な話を難しく書いている気がします。
なので今回はこのへんで。