2012年7月17日火曜日

目的を持たないことを目的にする。

今日はそよ風ペダルの稽古です。体操、発声と体をあたためてしばらくご無沙汰していました名前を呼ぶゲームをおこないました。劇団名も決まり試演会に向けての稽古も本格的にはじまってきています。ということでそろそろお互いにこの劇団で呼び合うあだ名も決めていってチームワークを深めていこうと。ゲーム自体もみんなで一定のリズムを共有して場の空気を作れています。チームが動きだしました。


一週の休みを挟みました。その間に講師の筒井さんが作品の初めの部分の脚本を書かれてきました。今までのワークでは皆さんがその場で出てきた言葉を自然に声にしてやりとりしてきました。今日は事前に用意されている言葉をどう扱か。
みなさんが自然とやり取りをする、その生きた声はとても魅力的に感じられます。事前に言葉があったとしてもどうにかしてその生きた声を失わず演技していきたい。そんな思いが筒井さんにあるようです。みなさんが事前に用意された言葉があるときどんな風な声になるのか、どんな風な体の状態、動きになるのか。それも確認されていました。一つの長いセリフをみんなで割ってしゃべります。なぜだか脚本のセリフとなるとイントネーションが標準語になったり声が固くなったり。まずは細かくイントネーションを普段の言い回しがどんな言い方をしていたかを思い出してみます。言葉が体に馴染んできたところで円を描いてみんなで歩いて、セリフを言う人が真ん中に出てきてしゃべるという演出を試しました。


最後に筒井さんからこれから稽古を進めて行くにあたって伝えておきたいこと。下手な演技とはなんだろう。役者の中に優れた演技、やりたい演技がありそれを目的にして演じたとき、観ている側からはそのやりたい演技と実際その役者が演じている演技の差が明確に見えてしまいます。その差が大きければ大きいほど演じられている演技は下手に見えてしまう。なるほどと納得させられました。なんだか舞台上の存在感や演技の説得力ということにも関わってくる話だと。優れた演技や頭の中で思い描いた演技を追い求めすぎると、今実際にそこに立っているはずのその人が見えてこなくなります。そよ風ペダルが目指したい演技は今自分の中に自然にあって無理をしないでいられる演技。自分を知り、自分の中で限界ぎりぎりのところを狙う演技。目的を持たないで自分のまま自然に舞台に臨んでいこうと思います。