2016年12月28日水曜日

虚無でさえも。

12月27日 そよ風ペダル 担当:梶川

年末です。
今年最後の稽古です。
さすがにお休みが多くて少し寂しい感じですが、その分濃密な稽古を。
1月からテキストを読む稽古をしますと予告されています。
今日はそれに先立って、筒井さんの持ってこられた文章で読みの稽古をしました。
使った文章は萩原朔太郎の「虚無の歌」。
ネットで検索したところ、青空文庫に掲載されていました。

 虚無の歌
    我れは何物をも喪失せず
    また一切を失ひ盡せり。 「氷島」

 午後の三時。廣漠とした廣間(ホール)の中で、私はひとり麥酒(ビール)を飲んでた。だれも外に客がなく、物の動く影さヘもない。煖爐(ストーブ)は明るく燃え、扉(ドア)の厚い硝子を通して、晩秋の光が侘しく射してた。白いコンクリートの床、所在のない食卓(テーブル)、脚の細い椅子の數數。
 ヱビス橋の側(そば)に近く、此所の侘しいビヤホールに來て、私は何を待つてるのだらう? 戀人でもなく、熱情でもなく、希望でもなく、好運でもない。私はかつて年が若く、一切のものを欲情した。そして今既に老いて疲れ、一切のものを喪失した。私は孤獨の椅子を探して、都會の街街を放浪して來た。そして最後に、自分の求めてるものを知つた。一杯の冷たい麥酒と、雲を見てゐる自由の時間! 昔の日から今日の日まで、私の求めたものはそれだけだつた。
 かつて私は、精神のことを考へてゐた。夢みる一つの意志。モラルの體熱。考へる葦のをののき。無限への思慕。エロスヘの切ない祈祷。そして、ああそれが「精神」といふ名で呼ばれた、私の失はれた追憶[#「失はれた追憶」に傍点◎]だつた。かつて私は、肉體のことを考へて居た。物質と細胞とで組織され、食慾し、生殖し、不斷にそれの解體を強ひるところの、無機物に對して抗爭しながら、悲壯に惱んで生き長らへ、貝のやうに呼吸してゐる悲しい物を。肉體! ああそれも私に遠く、過去の追憶にならうとしてゐる。私は老い、肉慾することの熱を無くした。墓と、石と、蟾蜍(ひきがへる)とが、地下で私を待つてるのだ。
 ホールの庭には桐の木が生え、落葉が地面に散らばつて居た。その板塀で圍まれた庭の彼方、倉庫の竝ぶ空地の前を、黒い人影が通つて行く。空には煤煙が微かに浮び、子供の群集する遠い聲が、夢のやうに聞えて來る。廣いがらん[#「がらん」に傍点]とした廣間(ホール)の隅で、小鳥が時時囀つて居た。ヱビス橋の側に近く、晩秋の日の午後三時。コンクリートの白つぽい床、所在のない食卓(テーブル)、脚の細い椅子の數數。
 ああ神よ! もう取返す術(すべ)もない。私は一切を失ひ盡した。けれどもただ、ああ何といふ樂しさだらう。私はそれを信じたいのだ。私が生き、そして「有る」ことを信じたいのだ。永久に一つの「無」が、自分に有ることを信じたいのだ。神よ! それを信ぜしめよ。私の空洞(うつろ)な最後の日に。
 今や、かくして私は、過去に何物をも喪失せず、現に何物をも失はなかつた。私は喪心者のやうに空を見ながら、自分の幸福に滿足して、今日も昨日も、ひとりで閑雅な麥酒(ビール)を飲んでる。虚無よ! 雲よ! 人生よ。



この文章を読んでいきます。
段落でわかれているところをどう扱うか。
い抜き言葉をどう扱うか。
古めかしい文章に感じますが、当時としてはとてもカジュアルな文章なわけで。
口語として書かれています。
では書き言葉から喋り言葉のように読めないか。
もっと言うならば書き手や文章の中の役柄として読めないか。
そのようなことを検証していきました。

最後にこの詩をザックリと解釈するなら、いろいろあるけれど結局求めるのはビールだねということ。
そうだとして、自分に置き換えて色々あるけれどこれさえあれば大丈夫だと思えるものはありますかという問いかけがありました。
つまりこの問いかけがこれまでのバブルの話と繋がっていき。
バブルも含めこれまでいろいろあったけれど、今はこれがあれば満足できるようになった。
そんな筋道のお話になるのかもしれません。
いかがでしょう。
これさえというものはありますでしょうか?